昭和55年12月02日 朝の御理解
御理解
「御」
ここでは全てのものに 全ての事柄に御の字をつけるという事を申します。今日はこの御の字を頂きましたから それをもう間違いなく全ての事柄に、御事柄として頂けたら最高ですけれども、なかなかなら御の字をつけてさえいれば良いかという訳でもないのです。心から御の字が付けられる、いうならばよい一つの味合いとか、というものが感じられる御の字でなければいけません。例えばお茶を一つ頂きますでも、お茶が頂きたいこれは私の場合なんかはお茶が好きですけれども。
、自分で例えばしんあいであのう、お茶を立てて飲もうとか、自分で玉露なら玉露を入れて飲もうとか、という事はまだした事がありませんね。これはそこに玉露が飲みたい時には玉露を入れてくれる人がそこに居り、お薄を頂きたい時にはお薄をそこに立ててくれる人がそこにある。しかも立ててくれる人があっても、ならあのうお茶がなかったり、又はお湯がなかったり、そこにあれもこれもが足ろうて初めてお茶を頂く、そこになら茶という事になるのです。
だから我武者羅であった時とか、唯自分の我情だけで行なう事やらいうたり思うたりする事でもね、大体はすっきりと御の字のつけられんままに、こう押しまくって行くというような事は、本当の御の字という事ではありませんのです。人間というものがそれというていつも同じ調子という時ばっかりはありません。様々ななら私でいうならば、こうして御神前に額づいておる時もありゃ、御結界に奉仕しておる時もあるね。裏え下がっておる時もありゃ、寝室に入っておる時もあります。
ですからそん時そん時がいつぅもなら御結界に座っておる時のような、という事が信心かのように間違えてはならんのです。その為にね、私はどうでも調子を一つ覚えなければいけない、私は他の楽器は知りませんけれども、いつも申しますように、例えば三味線には三つの調子があります。本調子、二上がり、三下がり、昔まだ椛目時代に久保山先生、秋永先生、光橋先生、今の光橋先生のご主人です。がまぁ私の信心を三等分に分けた先生達だというような御理解頂いた時に、そのう今の事を頂きました。
久保山先生はご承知の方も多いと思うけれども、もう全くもう本調子の方でしたですね。もう本当に本調子の、本調子の方でしたね。そすと秋永先生は、今でもやっぱりそのふうがありますけれども ちょっと二上がりの二の、糸のきいたタイプですよね。そすと光橋先生というの、は何んというでしょうかね、実に見事な三下がりの人でした。粋人でした。なかなかのそれも高尚な粋人でしたね。だから合楽には、此の三つが足ろうていけばいいのだとね。
本調子、二上がり、三下がりだからこの調子をね覚えるという事は、これは実際に教える事は出来んのです。もう自分が覚えようという気が無ければダメなんです。もう五年立っても十年立っても、三味線の稽古をしておりながら調子が分らんという人があります。耳が肥えてこなければなりません。いつもさぁこれが本調子だよこれが二上がりだよとこう音を聞かせてもですね分らんです。結局自分で体得するより以外ないです。信心もそうですね。信心のいうならば調子をねそれには本気でいうなら聞き覚えですね。
合楽にこうして御縁を頂いて本気で信心を分ろうと構えを作り、精進させて頂いたらねそれこそ誰で、も調子が自ずと分かってまいりますね、調子が合って次の曲です。信心もそうです。信心生活というのは何か、いつも神様の前に向かっておる時ばっかりのような、まぁ心の状態を持ち続ける事のような、まぁ間違いを思うておる人があります。最近合楽でいわれる人間が人間らしゅう生きるという事、そのなら生きるからというて、無茶苦茶な生き方ではいけんのですね。
その無茶苦茶もね、ここで昔、昔の茶室に屏風があります それに苦茶無茶と私がもう十四五年も前に書いたものが置いてあります。無茶苦茶じゃないです。苦茶無茶です。もう無軌道、無茶苦茶ではけんのです。いうなら教えに基づいてとあるのですから。ある達人のお茶の達人の方が、或るお客さんに向かった時、ちょうど何んですか昔のお茶をする人なんかは、よくその托鉢に出てそして托鉢から帰って来た時に、お客さんがあったようこそという訳で。
先ず自分が托鉢に持って歩く金のこんな、こう物を受け取る訳お米を頂いたらこれにこう受ける托鉢といいます。托鉢でしたかね、それそで先ず自分の手を洗うて口をゆすいで、そして部屋に上がって来た。そしてその手を洗ったその托鉢の、まぁお椀のようなお椀を持って来てそれでお茶を立てた。そしてお客さんにまあ差し上げたというのです、そのお客さんが驚いた。本当に名人達人というのはこれだろうと思うたというのです。私の目の前でそのお椀で手を洗うたり口をゆすいだりしとる。
それをきれいに洗ってそしてそれでお茶を出したもう。お茶の素晴らしいわびさびがそこにはあったというのです。まぁどうしたろくそな坊主っじゃろうかと思わなかった訳、汚ならしさを感じなかった訳ね。これはいうならば本当の事を一通りをお茶の精神というものも、お茶も体得しとかなければ出来る技ではありませんね。ですから本当のお茶をしておる人がそれをなす時に、それがいかに手を抜いたり、又は今のような事があっても、そこにちゃんとお茶の精神があり。
むしろそのお茶でいわれる わびさびが一段と素晴らしかったというのです。それが苦茶無茶です。苦しい茶を通っているのです。お茶を体得するためには一生懸命の本気で修業をしているんです。その人がする無茶はもう無茶ではない苦茶無茶である。その味わいの素晴らしさね、先ずは体得しなければならない。なら今朝私が申します全ての事に御の字が、心からつけられるという事は、こんな事に御の字を付けてよかじゃろうかと、思うような事すらあるのですからね。なら私でいうならばお広前えご奉仕させてもらう時、あちらえ下がっておる時。お食事をする時休む時。
そん時そん時の、ははぁここは本調子で、ここは二上がりでいいなぁ、ここは三下がりでというようにです、それが調子が自分で合わせられる稽古をする事が、あのお茶のそれでいうならばね、あらゆる角度からの合楽理念をマスターして、実験実証した人じゃなければ私分からない境地だと思います。だから真似ではいけんのですね。先ずなら三味線を弾くならば調子を覚えなければならない、それはお師匠さんがさぁこれが二上がりだよこれが三下がりだよと弾いて聞かせても、分かるもんじゃありません。
けれども稽古を本気でさせて頂いている内に、自分の耳でぴしっと頂きとめる事が出来るです。そでここは二上がり、ここは三下がり、ここはもう本調子で、いうならば変幻自在とでも申しましょうかね。私がならこちらえ出てまいります時でも、今はあちらでまぁ十分余りあちらの神様の前に、御祈念をさせてもろうて子供たちが来るのを待ちます。子供たちが今二人、幹三郎と栄四郎とやって来ますから、待ってこちらえ出て参りますと、ちょうどここで控えに着いた時が四時ですね。
やすんでおって今度はまぁいうなら、休んでおる時が三下がりとでも申しましょうかね。そんならば、今からお広前奉仕を頂く時にゃ、ぴしっと本調子にいうならば合わせて出てくるんです。その事の願いをするんです。だから二上がりは二上がり 本調子は本調子の、いうなら調子がね狂わずに出来た時に、そこに本調子でなければ二上がりでなければ出来ない味わいというものが出て来るんです。いうならどこにででも有り難いのです。どこにででもすべての事に御の字がつけられるのですね。
ですから例えば御の字をつけるという事が、今三味線の調子でいう三つの調子をです ぴしっと、こうこれはこれだよと教える訳にはいかんのです。体得する以外にないですね。そこからいうならどこに居っても御の字がつけられるという事になるのです。それにはいうならば天地自然の働き、例えば昨日一昨日でしたか、家内が今度の結婚式のいろんな買物があるから、私に来てくれという私もなら行ってやろうという事になっておった。ところがふっと思ったら、今日は竹葉会だなぁと思いついた。
だから私は止めました。あぁたが来てくれなさらんならというけんで、まぁとにかくお願いしとくからお前一人で行って来いと、いうてまあやりましたようにですね。あのう自然のいろんな働きの中にですね、ぴしっとこういわゆるタイミングです。どんな場合であってもタイミングがあるんです。だからそのタイミングを狂わせんようにしてゆく、稽古が調子をいうなら調えて行く事であり、調子を分かって行く稽古なんです。素晴らしいタイミングそこを捉えて、そこからのいうならば事。
昨日高橋さんが或る方に、ちょっとお金が足りんから借りたいとこう思われた。それでもまぁ一辺も行った事もないから 行ってもいいじゃろうかと思うておるところへ、その方達が親子でその店の前を通られるとこういうのです。はぁこりゃ神様から許されたなぁ、というてお届けをなされました。出来る出けんは別としてね そういうような有り方というものがね、ぴしっと自分で受け止められる時こそ調子が合うた時ですね。皆さんが御理解を拝聴しとる時だぁけのような訳にはいけませんでしょう。
いろんな様々の所とがありますけれども、その様々のところにいうならば三味線の調子を合わせるのには、先ず一の糸のを調えなければでけません。一の糸がびしっと合ったからその一の糸に合わせて二の糸を合わせ 三の糸を合わせて行くのです。だからどこまでも自然の働き、いうならば神様の働きこれが一の糸です、それに合わせてゆく手立て、それがいうなら合楽理念が説くところの、楽しゅうして有り難うして愉快にまでなってくるというのは、そこのところの体得が出けてからの事だと思うです。
そしてそこにつけられる御の字ならば、この御の字が素晴らしく生きて来ますね。昨日のお話の中にも、御無礼でもない事を御無礼と思うて、もう自分のような者じゃおかげ頂かれんと決めこんでしまう、といった様な事がないのです。そこにはそこの調子があるという事、それを体得それはなら、私があなたに教えようとしても、皆さんが分かるはずがなか、これが本調子ですよというても、見たり聞いたりしてして行く内に。
自分のいうなら心が肥えて参ります。その肥えた心でびしっと受けとめて行くというようなね、あり方を合楽ではこれは、もう合楽の独壇場というてもいいと思うですね。今私が皆さんに聞いて頂いた事は、ですからそこを私は頂く事が、天地との交流を計るもう第一のポイントになるところだというふうに思います。すべての事に御の字をつけさえすればよいと、いうのではない事が分かりましたね。
どうぞ。